ゼミ大千秋楽カーテンコール
2018年3月24日をもち、大学を卒業しました。ゼミの話をしてきたブログなので、ゼミの話をします。そしてご存知私は舞台オタクなので、大千秋楽カーテンコールをしたいと思います。「本日はご来場、誠にありがとうございました」。
このゼミに入ろうと決めた時点で、私たちはよく似ていたんだろうなと思います。興味関心やスタンス、社会との距離の取り方とかが。
そんな人たちが、知りたいことを知るために、(物理的にも)走り回る姿を間近で見てきたことは、私の人生のかなり大きな財産です。そういう環境で「どうしても負けたくない」と思って生きてこれてよかった。まあ私は映像も文章も上手くないから、逆にみんなの張り合いになれてたとは思ってないけれど。悔しかったことが沢山あります。ゼミにいなければ知らなかっただろう劣等感とかも沢山。
渦中にいた頃は、苦しいなと感じることばかりでした。
知らない人と話すのも知らない場所に行くのも映像にこだわるのも踏み込んだ質問をするのも、全部苦手だったし、結局最後まで得意にはなりませんでした。
ふざけんなよと思いながら編集したときもあったし、これが終わったら絶対辞めてやると思ったときもありました。でも、喉元過ぎればなんとやらで今は全部いい思い出です。笑っちゃうね。
でも、時間をかけて全く知らない世界のことを1から知っていくのは本当に面白かったです。
私は自分の引き出しを増やす作業がすごく好きで、ゼミは私のそういう部分ととても合っていました。取材で出会った世界を、ここにいなければ私はきっと一生知ることはなかったと思います。知れてよかった。あのとき、ただの大学生に協力してくれた取材先の皆様には、本当に感謝しています。
私も含めてゼミ生は、全員どこか欠けてる部分のある人間だったように思います。でも、誰かの欠けてる部分を肯定するでもなく否定するでもなく、「そういう形なんだな」と受け入れる人が集まった場でもありました。その距離感は、ずっと、とても、優しかったです。
特に、私にとってこの3年間はゼミと関わりのない部分で大変なことがたくさんたくさんあって、まあ私はその話を気持ちの整理が出来てなさすぎてゼミ生にも(というか他の人にも)ほとんどしてないんだけど、それでもつらい時期に無理に普通を装わなくてよかったこととか、明らかに死んでる私に対して踏み込まないでいてくれたのは本当にとてもありがたかったです。
甘ったれで頑固で気分屋で自己中だけど小心者で見栄っ張りの私が、取り繕わず機嫌が悪くいれたり言いたいことを言えたり泣いたりできたのはこの居場所だけでした。すぐ泣く!ってみんなは言うけど、そもそも泣けるほど感情が動いて、しかもそれを表に出せるのはゼミにいるときくらいです。
私には他にも大切な人は沢山いるんだけど、こういう大切な「場所」ができたのは正直初めてで。だから、それを失くすのも初めてで、なんかどうしたらいいかよくわかんないな。
10年後、きっと私たちはバラバラのライフステージにいると思います。もう今後、この3年間みたいに同じように生きて、それを共有できる日々は二度と来ません。同じ悩みを共有してあーだこーだ騒ぎながらみんなで試行錯誤するのももう出来ません。私たちはもうどうあがいても101には帰れないのです。
だからこそこの3年間がひどく美しいものになったんだと思います。学生生活は有限で、私たちは最初から終わりに向かって走っていて、だからやりたいことを全部やろうと全力疾走できたんだと思います。
みんなで行った合宿も旅行も打ち上げもなんかずっと夢見てるみたいだったね。テストもそっちのけで作業した日々も、取材先が決まらなくて焦った多目的室も、自分たちの映像で初めてお金をもらった上映会も、ぐだぐだな合同ゼミも学部研究発表会も。全部、現実に起こったのが信じられないくらいの時間を一緒に過ごしてきました。
紛う事となき、私の青春でした。
ありがとう、たぶんずっとみんなのことが大好きです。もう私のこういう思いは、全部みんなに伝わってると思うけど、それでもまだ言います。
自由で優しくて強いゼミ生が大好きです。
自分の力で飛べるみんなを尊敬しています。
"人生はドキュメンタリー"らしいじゃないですか。私たちの人生なんてまだ始まって3分くらいだと思います。3分の映像を組み立てるのに30時間くらいかかるんですけどね。だからさ。
人生で一番楽しかった時間がこの3年間にならないくらい、全員絶対幸せになろうな。
そういう呪いを、祝いを、みんなに最後にかけておしまいにします。
「ありがとうございました」!
じゃあ、またね
新作落語「ゼミ怖い」
ESを書くのにも飽きたので、たまにはブログ更新。考えれば考えるほど怖いゼミの話。あるいは惚気。まんじゅう怖い。内容は薄い。
当ブログでは、ゼミで行っていた取材の話をしてきた。ここに書いてきたいくつかの話でもわかるように、私は基本的にはなにをしても許されるゼミに所属している。ゼミの時間に取材をしているわけではないので、編集できるくらい素材が溜まるまでは基本的に進捗報告をしている。企画プレゼンから始まる進捗報告の時間がとても好きだ。
「夏休みの間に沖縄行きます」「昔自分のこといじめてた人に会いに行きます」「タイでバックパッカーの取材します」「地元近くの過疎地域の取材したいんですけどバスが日に一本しかないんですよね〜」エトセトラエトセトラ。バラエティ豊かすぎでは?これが全て許容されてるの少し怖い。誰もなにも止めない。怖くない?ちょっとは止めてほしい。
うちのゼミは仲がいい。何かにつけて飲み会をしていたり、会えなくてさみしいと言ってみたり、卒業旅行行こうねと言っていたり、集団としての仲の良さは多分めちゃくちゃに良い。
けれど、多分全員がキープラインのようなものを引いている。ここからは立ち入り禁止と札を立ててる瞬間がある。そして全員がその札をちゃんと了解しているのだと思う。だから、我々は企画についてや、それ以外のその人が考えて決断したことについて干渉しない。
冷たいように見えて、ひどく居心地がいいなと思っている。あなたの人生に私は関係ないけど、私もあなたも自分が決めたことで幸せになれるといいね成功するといいね、というスタンス。もちろん助けてと言われたら全力で助けに行く気もあるけど。でも信頼関係として最高だと思うのだ。頼んでもないのに口を出してくる他者よりよっぽど誠実だな、と。だって考えてることを否定しないということは、そこまで信頼度が高いということだ。
ただの偶然でなんとなく集まったこの集団の中にいる人たちが、私の全く知らなかった世界や考え方をしていることを「知れて」良かった。所属してきたどの集団の人たちも個性的だけど、やはり少しこの人たちについては知っている一面がとにかく鋭利すぎる。卒論のテーマ発表も相変わらず尖っててちょう面白かった。ゼミというコンテンツという感じだった。
早く、またどこかにみんなで遠出したいな。あと私、卒論の時間と必修の授業かぶってるんだけどどうしたらいいかな。
本の福袋が早く売りだされてほしい。
お久しぶりです。
今回は取材に関係なく、友人との企画が楽しかったので番外的に更新します。
初売りで賑わう街を見ながら、本の福袋が1番ほしいなと思って。
12月24日。
三千円分の本が詰まった袋を友人と交換した。「本の福袋」と題したそれは、新しい出会いに満ちていた。
新宿紀伊国屋本店が好きだ。
目当ての本があってもなくても、三時間は時間が潰せる。平積みにされた本を眺めて、どの本を読もうかと考えるのが特に好きで、うろうろと棚と棚の間を行ったり来たりしてしまう。
しかし、最近あまりにも行きすぎているせいか、手を伸ばす本手を伸ばす本、どれも既視感が拭えない。全て、なんとなく、見たことある感がつきまとう。私自身の好きなテーマや好きな語感が変わらない限り、似たような本に手を伸ばしてしまうからだろう。
そうなってくると、だんだん「本を選ぶのが面倒臭い」という気持ちになっていく。
私の認知していないところから、私の好きな感じの本を、誰かに選んでほしい。読書ソムリエ。読書ソムリエに頼みたい。
そう思い出したのが発端だった。
読書家の友人にこの話をぼやいたら、同じ悩みを抱えているということが発覚した。
それならお互いがお互いに本を選べばいいのでは、という結論に達するのは当たり前だ。
上限3000円、冊数制限無し、テーマだけを相手に決めてもらって福袋を作ろうという話になった。
私の出したリクエストが「職人が出てくる本」で、友人が出したリクエストが「影のあるイケメンが出てくる本」だった。
ちなみに、小説でも写真集でも漫画でも絵本でも本屋で買えるものであればそこに制限はない。
ちなみにこの友人は、私の友達の中では1番読書家だ。好きなジャンルはホラー、好きな作家は私の知る限りでは小野不由美と島本理生。少女漫画にも詳しい。だいたい私が言った小説がわかる。
私は、ライト層としての読書好きで、好きな作家は朝井リョウと三浦しをんというあたり、だいぶその感じが出ていると思う。浅く広く、わりとどんなジャンルにも手を出している感じ。
結局、五冊本を選んだ。
内容としては、
月魚/三浦しをん(儚い系イケメン)
世界地図の下書き/朝井リョウ(メンタルがイケメン)
烏は主を選ばない(各種イケメン。本当は空棺の烏を読んでほしかった)
ナラタージュ(思い出のイケメン)
三月のライオン一巻(生き方がイケメン)
といったラインナップである。見る人が見れば、安定の私らしい選書。
絶対にこのうち一冊は被ると思い、目録なるものを作り送りつけた。
持っている本を贈ったときへの対処法として、付加価値がつけられたらいいと思って。
そして友人がくれた本。
朝井まかて「眩」
九井諒子「竜の七つのかわいい子」
まだ竜の〜しか読めていないけど、世界にはれまだ私の知らない!面白い分野がある!!!というガッツポーズをしたいくらいだ。自分の知らない世界から殴られることはどうしてこんなに気持ちがいいのだろう。
私の選んだ本の一冊、「月魚」の中に「本棚はまるで脳みそみたい」というニュアンスの言葉がある。本当にそうだろう。その人が手元に残している本が、その人を作っているのだと思う。だから今回の企画で、他人の頭の中を一部見せてもらえたようなそんな気持ちだ。面白くて当たり前だと思う。プレゼントの紐を解くわくわく感を、とても久しぶりに感じた。最高のクリスマスだ。
女子大生取材日記⑤〜そんなものいないよ〜
進捗報告
・ただいま東京!!!!
以上です。
昨日友人が撮ってくれたお気に入りの写真。
バレエとか、踊り出せそう。
沖縄最終日。
もともと予約していた飛行機には確実に間に合わないアポが取れたため、飛行機の時間を遅らせて、今日は陸軍病院南風原壕群20号の見学・取材へ。
暗所・閉所恐怖症の私は、昨日のガマのレプリカでビビったのに加え、去年ガマを取材していた先輩方に脅され、今日の朝は緊張で体調が悪いという見事なヘタレフルコンボを叩き出す。大変ご迷惑をおかけしました。
車を運転してくれていた先輩とは南風原文化センターで別れ、Mちゃんと二人で壕に向かう。
南風原の陸軍病院はひめゆりが2ヶ月間看護活動をしていた場所で、沖縄に行くなら絶対行きたいな、とは思っていた。
正直、カメラを回せるとは思っていなかったが、一か八かで事前にメールをしたら取材許可をいただけたので撮影することが出来た。
目的地の陸軍病院は山の中にあり、たどり着くためには山を抜けなくてはならない。
朝に降った雨で道はぬかるんでいて、コンクリートの道ですら滑って危ない。
途中分岐点があり、整備された遠回りか、「飯揚げの道」を通って近道するかだ。
「飯揚げの道」は、壕から炊事をしていた集落まで、二人一組になって醤油樽を担いで傷病兵や自分たちのご飯を取りに行くための道だ。
運んでいる間も銃弾が飛んでくるこの道は、当時の彼女たちにとって最も危険な仕事の一つだったそうだ。
履いていたスカンツの裾を上げながら、飯揚げの道を通ってみることにする。
ハブ注意の看板を横目に、ほとんど道無き道を登る。終わりが見えないのと足場の悪さで、ちょっと行って断念してしまった。
あそこを大きななにかを持って登るのはあまりにもキツイし、それにプラスして敵に見つからないように走ったりかがんだりするのは無理だと思った。
汗を拭って、整備された道を進む。
ガマには、ヘルメットと懐中電灯を持って入る。入る前にカメラを持つ手に力が入らなくて笑った。
映像ブレてたら使い物にならないわ、と思ったら怖いとかいう気持ちが消え失せたので、怖いとか以外に意識を持って行くのは大切だ。
中は外より涼しく、思ったよりなにもなかった。
当時のことを想像をすることは、この取材においてずっと必要なことだったが、私はここでなにかを想像することを意図的にしないようにしていた。
想像したら、確実に立ちすくむと思った。
出口の扉の前で、持っていた懐中電灯を消して当時の暗さを体験してみるというレクをした。
一瞬だけ光の消えた壕の中で、カメラ越しにしか振り返れなかったのは私の弱さだなと思う。
レンズを通さないと、私はここでなにかと向き合うことは出来ない。
なにがそんなに怖いの?という感じだと思う。
なにが怖いってそりゃ、おばけなんだけれども。
こういう取材をしていて「おばけ怖い」とかいうと、失礼かなとも思うし、実際そういう風潮もあるし自分でもそう思う。
そこで亡くなった人に寄り添って取材をしているのだから、そんなこと言ってるなやとも思う。
これは今年だけじゃなくて、去年の被災地の取材でも思っていた。
だから、取材の場では絶対に「おばけ怖い」なんて言わないし、思わないようにもしている。
本を読むのが子供のころから好きだ。
特にハリーポッターなどのファンタジーが好きで、いろいろ読み漁った経験がある。
ああいうものを読むときに私が多分一番使っている力は、想像力だ。
その場面を事細かに思い浮かべて、世界を作って物語をたどる。
ファンタジーで鍛えたこの力を、他の本で応用するとたまにしんどいときがある。
「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」や、壕の中にある説明文の具体例なんかがそれにあたる。
読んで瞬間的に想像できたことが、映像となって自分の頭に記憶されるのを知っている。
その覚えた映像が、目を瞑った拍子や、今後同じような場面で何度も思い出されることも知っている。
私が怖いのは、都市伝説みたいな「おばけ」ではなくて、自分が想像した「こわいこと」なのだ。
ただそれは今は現実にない、という意味でおばけであり、しかも確実に私にしか見えないのだ。
今日、夕方家に帰って、とりあえず30分寝ようと思って部屋の電気を消したら、まんまと壕を思い出した。私はどこにでも現れるおばけを、また一つ獲得してきてしまったみたいだ。
沖縄、全体的にいい経験だった。
本当に百聞は一見にしかずだったなあ。
これからどう展開させようか悩んではいるのだけれど、とりあえず「第1章、完」ではないだろうか。
明日から大学。夢見たいな沖縄から、しっかり現実に戻ろう。
女子大生取材日記④〜無敵になりたい〜
進捗報告
・取材一件終了しました
・サータアンダギー美味しかったです
・日焼け
以上です。
沖縄取材1日目(昨日は移動日)は、
ひめゆり平和祈念資料館→
ひめゆり学徒隊散華の跡→
師範学校、一高女学校跡地付近へ行ってきた。
今回の取材では、ゼミ同期のMちゃんとゼミの先輩に同行してもらっている。
朝一でひめゆりの塔と平和祈念資料館へ。
暗くて低いところ(特に自然が作り出しているところ)がとても苦手で、ああなんかもう無理かもしれんな…という気持ちになる瞬間が何度かあったが、レプリカのガマよりしんどかったのは、一番最後の展示だ。
ひめゆり学徒の写真と、彼女たち一人ひとりを紹介するコメントが壁一面に飾ってあり、部屋の中心には手記がある。
部屋には女の子たちが合唱している曲のBGMがかかっていた(何の曲か結局分からなかった)。
第三外科(ひめゆりの塔)のガマの原寸大レプリカもここで見ることが出来る。
この部屋があまりにもしんどくて、メンタルを消耗しすぎてちょっと目の前がくらくらした。
薄暗い建物の中で、ぼんやり手記の内容をガマを見て思い出しながら、今はもうここにいない人についてを知る。ぐらぐらするくらいの情報量と歌声が頭に響いた。
そのあと一件取材をしたけれど、これは課題にするので割愛。
そのあとは、荒崎海岸へ。
「解散命令」が出たあとに、彼女たちが逃げた先に辿り着いた場所であり、またその後自決が行われた場所だ。
車では到底近くまで行かれないので、近くに車を止めて徒歩で向かう。
農道というか、獣道というか、ほぼ整備されていない道を迷いつつ歩く。
先輩がずっと「ハブが出るから!」と騒いでいるのを後ろに聞きつつ、先を行く。
砂利よりもう少し鋭利な石で足場は悪く、なんとなく道になっているところ以外は身長より大きいサトウキビ畑やよくわからない草が生えていた。
9月の太陽に負けて、だらだら汗をかく。
多分ここを抜けたらつくのだろうなという道は、トトロのトンネルをもう少し荒廃させたような道でちょっと絶望した。
ここを裸足で進むのは到底無理だし、怪我をしていたら本当に歩けないだろう。
目の前が突然開けて海が見える。
今日の私は、海が見えて、これて安全だ…、と思ったけれど、彼女たちがあの道を通ったときあの海は救いになったのだろうか、と思った。
海はとても綺麗だった。
先輩があまりにもハブを怖がっていたので、途中で申し訳なくなり「私行ってくるんで、待ってていいですよ」と言ったら、「ジャーナリストとして行かなきゃいけない」と言い出したのは、ちょっと面白かった。
そのあと車の中で、「カメラ持ってる間は、死なないと思ってる」という話をMちゃんとした。
カメラを回している間だったら、私たちはなんでもできるのかもしれない。
無理をするつもりはないけれど、それで無敵になれるなら安いなと思う。
私、無敵になりたいな。
女子大生取材日記③〜なれそめ、もしくは70年前の私について〜
進捗報告
・沖縄着きました
以上です。
取材は明日からだが、いろいろと朝早くに取材を入れている。たぶん早起きしないといけないのだろうけど、土地勘がないため、どこにいくにはどのくらいかかるのかいまいちわからないでいる。
土地勘のない沖縄にどうして取材に行くのか、そういえば書いてなかった。書こう。
私はたぶん、ひめゆり学徒と自分が同じだったという証拠を探したいんだと思う。
去年の7月7日に、ひめゆり学徒隊をモチーフに作られた、今日マチ子原作『cocoon』という舞台を観劇した。
そのときの感想ブログ(70年前のわたし - ログ )にもいろいろ書いたのだが、これは「私の話だ」と思った。
戦争を体験したこともない、もう少し近いところで言えば看護体験もない、ないけれど、あれはたしかに女子校で生きてきた私の話だった。
中高一貫の女子校に通ってきた。
友達と下校時間まで話続けたこと、
部活も委員会も頑張っていたこと、
定期テストも、体育の授業も、
私は彼女たちとどう違うのだろう、と思った。
それに気付いたことはどうしようもない恐怖を私に与えたと同時に、「本当にそうか?」という疑問を抱かせた。
時代ということ以外に、「違う」部分があると思いたい。思いたいけど、無い気がする。
それなら、私は彼女たちのことを知らなければならないのではないだろうかと思うのだ。
70年前に生きていた私のことを知らなくちゃいけないのだ、きっと。
沖縄戦の話を聞きたいというよりも、私は彼女たちが「ひめゆり学徒隊」になる前の話が知りたくて、沖縄にまで来てしまった。
あなたはどんな人で、どんな友達がいて、どんなことが好きでしたか。
教科書に書かれていなかったことが知りたい。
だから、取材をすることにした。
それが私のこれに関する「話」だ。
ここからは違う話。
『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』や『水筒』を読んで思ったことが幾つかある。
女子校のころ、校則は厳しかったけれど、私は確かにあそこで生きていた時間「守られている」と感じていた。
大学は楽しい。
自由で好きなことだけやっていても許されるから。別に好きじゃない人と関わり続けなくてもいいし、合わないと思ったらやっていることをやめてもいいから。
いいね、いいことだ。
でも私は「守られてない」と思う。
特定の組織の下(ゼミとかそれ以外の特殊講座)では「守られている」と思うけれど。
組織に属するというのは「守られる」ということだと思う。
「守られる」代価として要求されるのは「構成員としての正しさ」なのだろう。
校則は守らなくちゃならない。先生の話は聞かなくちゃならない。女子校時代よく「うちの生徒としての自覚を持って」と言われたのは、きっとこのことだ。
対価を払わなければ、守ってはもらえない。
ひめゆりの話は、だから私にとってしんどい。
対価を払って、払い続けて、それでも守られなかった話だと思うからだ。
6月18日に彼女らが歌った別れの曲が、きちんと卒業式で歌われることが必要だったと思うのだ。
はじめて来た沖縄は思ったより暑くない。
今日は曇りで、曇りだったけれど、夕日が綺麗だった。
明日は晴れるといいな。
てびち美味しかった。
また更新しよう。
いつにも増して文章がべろべろで申し訳ないです。
女子大生取材日記②〜国会図書館には本が無い〜
まず、進捗報告。
・沖縄には、9/13〜15で行く
・取材内容は「ひめゆり」について
・台風が来るかもしれない
・取材アポは二件取れたが、一件はカメラNG
以上になります。
取材の調べ物をしに、国立国会図書館へ行ってきた。
国立国会図書館、すごい。
日本で発行されたすべての本が集まる図書館には、本が無い。
小さい頃から図書館が好きな私は、ふらふらと本棚と本棚の間を歩いて気になった本を読むということを繰り返してきたのだけど、ここではそれは出来ない。
せっかくなので、ろくに下調べもせず「行けばなんとかなるだろ」と乗り込んだ、国立国会図書館の体験記録を書いておくことにする。
まずカードを作らないと利用が出来ず、(1日利用カードなどもあるけれど)身分証明書が必要になる。
申請書を書いてカウンターに出すと、カード自体は10分くらいで出来る。
ここまでは想定内だ。受付の人も優しかった。
カードができても、すっと図書館に入れるわけでは無い。
受付で「B5以上の不透明な鞄や封筒の持ち込みはご遠慮いただいております」と言われる。
はて……?大概の鞄はそうだが、私の鞄は透明ではないので持ち込めないらしい。
順路にある備え付けのロッカーに不要なものを預け、もらえる透明のビニール袋に筆記用具とパソコンを詰め込む。パソコンを入れたら、持ち手がはちきれそうになったので、抱えて歩くことにした。
国会図書館にある莫大な本の数々のほとんどは書庫にある。そのため、自分が読みたい本を職員さんに持ってきてもらわなければならない。
ずらっと並んでいるパソコンで資料を検索し、申請をすると受付に届く仕組みだ。
だいたい20分くらいで本が来る。どういう仕組みかさっぱりわからないが、たったの20分で一冊の本が探される。すごい。
個人への貸し出しは行っていないので、読みたければ図書館にいるうちに読まなければならない。
自習机のような机の一画に荷物を広げる。
私の横に座っていた人は、凶器になりそうな重量の本を広げているし、向かいの人は永遠と絵本を読んでいた。みんな目的があってここに来ている。
私がこの日、読んでいたのは『墓碑銘』という本で、亡くなったひめゆり学徒や教師の方々一人ひとりの名前と写真と最期と思い出が書かれている本だ。219名もの名前があった。
中には、「父から届いた手紙をラブレターと勘違いされ、みんなの前で開封することになったラブレター事件」や「ほうきをギターの代わりにして歌っていました」といった思い出も書かれている。卒業アルバムのようだと思った。
記述の多い少ないも当然偏りがあり、中には写真が無い方もいる。
それがとても、現実的だった。
沖縄に行くまでに、『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』と『ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック』も読もうと考えているところだ。